切ない話。番外編 − story of SAYU −




私は泣いたりしない。
こんなことで泣き崩れたりなんか。


目の前で閉められたドア。

完全に私の手からすり抜けてしまった甲斐。
こんなときにすら取り繕う言葉のひとつも言えない。
バカで不器用な男。

「じゃあな」

そんな簡単な言葉で、全部を終わりにしてしまう。
私と目を合わせることもできなくて去っていく。

意気地のない男。


でも、愛してた。
私が初めて愛した男。


間違えた道ばかり選んでしまった私。
こんがらがった関係。
汚れた手。

愛しいあの男。

出口のない迷路。

パタン。
閉じられたドアの音と一緒に。
全部終わった。


頭の芯に痛みを感じて、リビングに戻り、深くソファーに座り込む。


うそ。
終わってないモノが、まだある。

出口のない迷路。

私の気持ちの行き先は。
あっちとこっちを行ったり来たり。

ずっとずっと。
迷ったまま。

多分。
この先も。

甲斐を求めて。
迷ったまま。


涙を流さないのは、私のプライド。
涙で甲斐が戻って来るなら、幾らだって泣いてみせるけど。

一人で流す涙なんて、惨めなだけで。

誰もが私のこと、何でも持ってるって思ってるみたいだけど。
本当は何も持ってなんかいないこと、思い知らされるだけ。

私は惨めな女になんかならない。
自分で自分を哀れむなんてまっぴら。


でも、ただ、頭が痛くって。


もうずっと、眠れない日々。
甲斐と暮らした、狂気の日々を思い出してしまう。

私は狂っていた。

でも、あの時、そばには甲斐がいて。
私の望むとおり私に微笑みかけて。
大きな手で私に触れていた。

私は幸せだった。

もう戻らない日々。


もう一度、狂気の中に戻れたら。


私はこめかみを指で押さえながら、タバコに火をつける。
テーブルの上の飲みかけ、冷めてしまったコーヒーを手にとって。

でも、飲むのをやめる。

そのまま立ち上がって、キッチンのシンクに捨てる。
私の気持ちもこんな風に捨ててしまえたらいいのに。
排水溝に流れ込む、茶色の液体を眺めながらぼんやり思って。

せめてこの頭痛だけでも。

ふと目に入るのは、キッチンのカウンターの隅に置きっぱなしになった、小さなピルケース。

甲斐を手に入れたくて。
犯した間違いの一つ。
魔法のキャンディー。

私がやったことは、ひどい間違いだった。
今ではそれは分かってる。

でも、後悔はしていない。

ああするよりなかったって思う、恐ろしい私がいる。


私はピルケースを取り上げる。
からからと小さな音が鳴る。
まだ、残っている、魔法のキャンディー。

これで、消えるかしら。

この頭痛も。
出口のない想いも。



そっと、ピルケースの蓋を開けて―――。



その瞬間、無機質な電子音が私を呼んだ。


私はその音に大きく体を震わせた。

必要以上に大きく鳴り響いたように聞こえた、インターホンの音。
来客を告げる。


私はピルケースを放り出して、オートロックのエントランスと繋がる、壁の受話器に飛びつく。


「―――はい?」


勢い込んで返事をしてから気付く。
自分が何を期待していたか。

何を、私、バカみたい。

甲斐が戻ってきたのかも知れないって。
戻ってくるはずなんてないのに。

みっともない私。

自分で思っているより、私はずっとずっと情けない人間みたい。

このまま受話器を叩きつけたい衝動に駆られたけど。



『お掃除屋ですけど、御用ありませんか?』



受話器から聞こえてきたのは、どこか笑いを含んだような、間延びした男の声。
何?誰?
でも、聞き覚えのある。


山本……さん?


「山本さんでしょ?何の用?」

冷たい声を出すのは、思い出したから。

彼にぶたれたこと。
彼の前で泣いたこと。

どっちも、私にはありえないことだった。
ありえないし、絶対、許さないことだった。

そう正直なことを言えば、つまり、恥ずかしかった。

絶対誰にも見せなかったのに、私のそんなみっともない姿は。



『忘れモノ』



山本さんの声は、そう一言答える。

何よ?忘れ物って―――。


そう思ってから、思い浮かぶのは、やっぱり甲斐のこと。

そうね。
あいつなら、意気地なしで弱虫の甲斐ならやりそうなこと。

もう、私に会う勇気がないから、忘れ物を友達に取りに来させること。


バカみたい。
情けない。


そして、そんなつまらない男だって分かってるのに、忘れられない私も、きっとバカな女。


私は無言でオートロックを解除する。

誰にも会いたくなんてなかったし、特に、私のみっともない姿を見せてしまった、山本さんにはもっと会いたくなかった。

だって、きっと、今の私、この前以上に酷い顔をしているし。

でも、甲斐がよこした使いなら、会わない訳にはいかない。


だって、可能性を残したくないもの。


山本さんに取りに来させるほどの忘れ物、何があったか思い出せないけど、そんなものがまだ私のところにあるなら、私はまた期待してしまうから。

甲斐にまた、会えるんじゃないかって。


そんなの、耐えられない。


もう、甲斐は私の元には戻ってこないって分かってるのに。



玄関のドアホンが鳴って、私は重い足を引きずるみたいに、―――何だか急に年老いてしまったみたい―――玄関に向かう。

向こうにいるのが山本さんだって分かってるから、そのままドアを開けた。



相変わらず、でかい男。

私の目線の先にぶつかる胸から顔へ、山本さんを見上げて、思う。


そして、その見上げた先にあるのは、一見のほほんとしたような、でも、その実、何を考えてるのか全く読めない、食わせ者の笑顔。

もう、私は騙されないんだから。


「忘れ物って何?」


腕を組んで、冷たい目で見つめ返したつもり。
彼に通じるかどうかは分からなかったけど。

山本さんを部屋に上がらせないように、体で防いでたつもりだったのに、彼は、そんなこと何の意にも介さないみたい、その顔に胡散臭い笑顔を貼り付けたまま、私の横をすり抜ける。

「何よっ!」

つい、声を荒げてしまって。
やだ、こんなの私らしくない。

誰の前だって、いつだって、余裕のある態度を取れる自分が好きだったのに。


私は慌てて―――そう、慌てるのだって、本当は私らしくないんだから。
山本さんの後を追う。

「勝手なことしないで!忘れ物って何よ!?」


山本さんの後を急いで追って、一足先にリビングにたどり着いた彼の背中を睨む。
山本さんは私の部屋の中、ぶしつけにきょろきょろ見回している。



「残りがあるんだろ?」



当然のように言う言葉。

でも、主語はどうしたのよ。
何のことよ。

このヒト、頭おかしいんじゃ―――。



「甲斐に飲ませた、クスリの、残り」



ほら、この男は侮れない。
ニコニコ優しい顔で私の核心をついてくる。

私の一番苦手なタイプ。


「何のこと?」


山本さんは私の目を覗き込む。


やめて。
そういうことするの。

ただでさえ、今の私は、いつもの私じゃないのに。


「俺ね、甲斐のこと好きなんだ。あいつバカだし、自分で思ってるほどなーんにも物事わかっちゃいないし、でも、その癖、変なとこで親分肌だったり」


何言ってるのかわかんない。
全然、わかんない。


「でも、俺って見た目、こんなんじゃん?女の子ウケはいい代わりに、男には煙たがられちゃうんだよね」


私は、私のことで手一杯で。
何でこんなときに、あなたの身の上話なんか聞かなきゃいけないの?


「でも、こーゆー俺を、甲斐は面倒見てくれるワケ。しょうがねー、しょうがねーって言って。俺からすると、あいつの方がしょうがねぇヤツなんだけど」



イライライライラ。

イライラが募って、ほら、つい、高い声をあげてしまう。


「何が言いたいの!?何をあいつに頼まれたのっ!?」


こんな私、誰にも見せたくないのに。




やっぱり、山本さんは、ニコニコ笑いを顔に貼り付けたまま。
でも、そんなことくらい私にも分かるの。
ムキになったみたいな真剣な目で私を見返す。

分かってる。
分かってるんだから、私が、悪者だってことは。

甲斐にクスリを飲ませたことも、甲斐の大切なあの子を傷つけたことも。
甲斐にも、あなたにも恨まれるって分かってるんだから。



「甲斐は何も言ってないよ。あいつはそんな頭の回るヤツじゃないし」


山本さんは感情のこもらない目で私をみて、私の肩を掴む。

誰にも触れられたくない。
甲斐以外には。



「でも、俺は分かっちゃうんだよね。ホラ、さゆちゃんほっといちゃうと、また、俺の大事な友達に、変な罠しかけるんじゃないかって」



そう。
そうだよね。

そう思われても当然のこと。



結局、甲斐は誰にも愛されて、守られて。
何も分かってなくて、何も読み取れなくて。
バカで、情けなくって、どうしようもないヤツなのに、誰にも愛されて。


私までが愛してしまって。



私は誰にも愛されない。



そんな愛すべきバカを罠にかけた私は、騙して傷つけた私は、きっと誰にも許されなくて。



でもね、私だって、疲れてしまう。
私はもう疲れた。

愛しいヒトを傷つけることにも。
愛しいヒトに愛されないことにも。



「だから、お掃除に来たんだよ。全部、キレイに掃除しようって」



山本さんの指が私の頬に触れる。


どうして?
同じバレーの選手なのに、この人の指はこんなにキレイなんだろう。

甲斐の指は、もっと無骨で、もっと不器用だったのに。



「元から、俺に乗り換えるつもりだったんだろ?だったら、その続き、しよう」



耳元で囁かれた言葉は、すごい、酷いものだった。


私も、彼も、嘘だって分かってるお遊び。




そんなに甲斐を守りたい?
私はどうなってもいい?




そう。
そうだよね。

私は、あなたの大事な友達を傷つけた。
そんな私なんてどうなってもいいんだよね。


なら、付き合ってあげる。
私もそんなにキレイな体じゃない。





なのに、こんな酷い男なのに、何でこんなに優しい腕を。





自分でも支えきれない体を、ふわりと浮かすように抱き上げる強い腕。
そのままベッドにまで運ばれる。

私の頭はくらくらする。

その笑顔の奥にあるものを見極めたいのに。
するりと逃げるずるい顔。

甲斐は、こんな風じゃなかった。
甲斐は、全部、分かった。

ちっとも私に気持ちがないことさえも。
それでもきっと逃げられないことも。

全部手に取るように分かった。

でも、山本さんは何も掴ませない。


でも、そんな思いも、千々に乱れ飛ぶような。
息もつかせない口づけに、思考が止まる。



いいのかな。
何も考えなくても。



この、とらえどころのない大きな体に、身を任せても。



そう、これは大人の遊び。

バカな甲斐にはきっと分からない。
甲斐の愛したあの小娘にも分からない。

悲しい大人の快楽の遊び。



おもちゃみたいに扱われた方が、救われるときだってあるんだから。



そう思って閉じた目を。



私なんて罰せられればいいと。
手ひどく扱って欲しかった。
息もつかせないほどに。

そう、さっきの口づけみたいに。



なのに、この男は優しく口づける。



「なんで……」



思わず見開いた目に。
降りてくるのは優しい唇で。


そっと耳に流し込まれる言葉は。



「甲斐のこと、想ってていいよ」



どうして?

私は自分の価値を知っている。
見た目は最高級で、でも愛される価値なんてないことも。

だから、こっちから利用してやった。

誰も彼も、私の外見が欲しいだけでしょ?
それだってお安くないのよ?

着飾る洋服、アクセサリー。
はたく香水に、最新のスキンケア。
維持する理想体重に、ふわりと揺れる髪の先まで。

全部、自然なんかじゃない。
全部、計算して努力して手に入れたもの。

だから決して安くはないんだから。



「キレイゴト言わないでよ。カッコつけないで。私が欲しいだけなんでしょ?」



搾り出した声も、ああ、私にこんなことを言わせる男も初めてだった、そう思わせるだけで。



「仲良しゴッコの真ん中で私を抱くつもり?」



余裕ぶった言葉さえ、震えているのが自分でも分かる。



「そうだよ。甲斐のおこぼれで、俺はさゆちゃんを頂くつもり」



私より、もっと酷い言葉を言うことのできる男。
そうね、そうそういないかも。


やわらかい髪が頬に触れて、その後、ゆっくり私の胸に顔を埋める。



でもね。
だったら。

もっと、手酷く扱わなきゃダメよ。

そんな優しい口づけじゃ、私のことは騙せない。



「誰を、何を想ってたっていい。全部忘れさせてあげるから」



優しいのか優しくないのか分からない言葉を耳の中に流し込まれて。

こんな嘘の腕でも抱かれれば温かいし。
今の私は、自分の体すらきっと自分で支えられない。


だから楽しんであげる。


でも、そんな余裕ぶった考えはすぐにどこかに飛んでしまった。
酷いこと言うくせに優しすぎる腕。

私に息をつかせる隙も与えないくらい。

違う。
こんなはずじゃなかったのに。

滲む汗と弾む呼吸。
演技じゃなく出てしまう、追い詰められた声。

こんな声、この男に聞かせたくなんてないのに。

シーツを掴む手首を大きな手で強く握られて。
かすんだ視界の向こうに―――。


ああ。
この人も、こんな顔するんだ。


真剣な顔だった。
射るような目で私を見ていた。

へらへらと人畜無害そうに笑う、でも腹の底を読ませない、貼り付けたみたいな笑顔じゃなくて、強い目、私を見つめる。

初めて見た。
そう思った。


本当の山本さん。


でもその視線には、強いのに、どこか少し悲しげな色があって。
ああ、そうか。
そう思う。

私を憐れんでいるんでしょう?


ほんの一瞬私と目を合わせた後、山本さんは優しく口を開く。


「目は閉じておいで。俺じゃないって思っていいから」


大きな手、綺麗な指先がそっと伸びてきて、優しく私の目を覆う。
そして続けられる、その行為。

襲われる快感に思考は乱れるけれど、でも、頭の隅がぼんやり思っている。


塞がれた目が少し悲しいって。
もう少し、本当のこの男を見たかったって。



でもそんな思いも長くは続かなくて、切れ切れに上げる短い声と、山本さんの迷いのない腕の強さ。

プライドだけしかない私。
そんな私を、私のプライドを突き崩す憐れみと快楽の行為。


溺れて、溺れて。


自分が自分じゃなくなるまで。
何も考えられなくなるまで。



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ほんの一瞬のまどろみ。
鈍い頭の痛みと、だるい疲労感。

薄く開いた視線の先には、目を閉じた美しい寝顔。

自然に私の体に絡んだ腕と、堅い肩、その寝顔をじっと見つめる。



何でこんなこと―――。
私には分からない。


ただ、私の体が欲しかっただけ?
危険な私を甲斐から遠ざけるため?
捨てられた私が可哀想だった?


分からなくて、少し落ち着かない気分。

そう、私が読めない男なんて今までいなかったから。


どんな男だって、考えることなんてみんな同じ。
何が欲しいかなんて手に取るように分かったし、それは甲斐だって同じだった。

全部、私の手の中にあるみたいに、全部分かった。
私のこと、愛してないことも。

でもそれが愛しかった。
甲斐のどうしようもないところ。
つけない嘘、そらせる瞳、不器用な腕。

でも、今私の隣にいるこの男は、全部反対で。
私に何も掴ませなくて。

私は小さく身じろぎして、自分の額にかかる髪を払う。

それから、ふいに彼の頬に触れたくなって―――、でも伸ばしかけた手を引っ込める。

あんなに言ってたのに。
気持ちだけはない行為だって。

こんな気持ちになるんなんてバカみたい。

こんな行為に意味なんてない。
私はバージンの小娘じゃない。

引っ込めた手、爪を噛む。



「比べてんの?」

ふいに声をかけられて、体が小さく揺れた。
眠っているって思っていたのに。

山本さんは、体をごろんとこちらに向けて、私の目を覗き込む。

いつもの彼。
読ませないニヤニヤ笑い。


でも、『比べてる―――』
その対象の名前を口に出さなかったのは小さな優しさ?
それとも小さなプライド?


「でも、俺、いい仕事したと思わない?」


私を覗き込む、にやけた顔。
バカ、何言ってんの?この男。

思わずちょっと血が上る、頬。
こんなときじゃなきゃ、私のあんな姿、こんな男に見せたりしなかったのに。

「まぁまぁよ。バカ」

そっぽを向いて答える私に、この男は、覆いかぶさるように顔を覗き込んでくる。
やめてよ、そんなこと。

「マジで?ショック、結構自信あったのに」

でも、本当にがっかりしたみたいな山本さんの顔に、私は思わず、少し、吹き出してしまう。

「バカみたい。何言ってんの?」
「結構―――」

彼は私の体に絡ませた腕に力を込めて、背中を向ける私の体にぴったりと体を寄せる。
密着する素肌どうしが熱い。

「―――夢中になってると思ったんだけどね」

何を―――。
思わず私は赤くなって山本さんの手を振り払う。
夢中になってなんか。


シーツの間をすり抜けてベットから降りた。
一糸纏わぬ姿。
恥ずかしくなんてない。
私は美しいから。

でも、からかわれるのは耐えられない。

「キレイな体」

ベッドの中の山本さんが、私の体を見上げて言う。
私は微笑む。
そうでしょう?

「心は真っ黒なのにね」
「なっ……!」

思わず山本さんの顔を振り返る。
さらりとひどいことを言う男。
嫌なヤツ。

「でも、俺も結構腹の中は黒いから。仲良くしよう。―――さぁ運動したらお腹すいちゃった。何か食べに行こう?」

にっこり笑ってそう言う。

何なの?本当に何を考えているのか分からない。
この男がどういうつもりなのか、私をどうしたいのか。
そして私を揺さぶる態度、言葉。

それがイライラした。
私が弄ばれるなんて許せなくて。



ベッドの上で上体を起こした、山本さん。
大きな体。
人をくったニヤニヤした顔。

私は彼に向き直り、見下ろして言う。


「一体、どういうつもりなの?私をどうしたいの?」

冷静なつもりだった。
でも、私のまっすぐな視線も、涼しい顔で受け止めるこの男を見たら。

不安で―――今まで不安なんて感じたことなかったのに。
常に私が、どんな関係でも優位な立場にあったのに。

反対に私の方の感情の方が高ぶってしまう。
悔しい。
分かってるのに。

「捨てられたかわいそうな私に対する同情?それともそんなに甲斐のこと守りたい?―――ああ、単に私の体が欲しかっただけか」

吐き出す言葉を止められない。


「甲斐が私を抱いたベッドで私と寝てどんな気分だった?優越感?それともそれも、馬鹿馬鹿しい友情の中に入るのかしら?」


誰かを傷つけるのは、私の得意技だから。
好んでも好まなくても。



山本さんは、少しだけ、ニヤニヤ笑いを引っ込めて、それでも何を考えてるかは読めない無表情。
じっと私を見た。


「どの質問から答えたらいい?」


からかう風でもなく、冷静に口を開く。

「どんなつもりかは、全部さゆちゃんの言ったとおり。同情も、さゆちゃんがこれ以上甲斐の周りをうろつかないようにって気持ちも、さゆちゃんみたいに綺麗な子とやりたいって気持ちも」

でも、この男も、人の気持ちを傷つけるのは得意みたいね。
私の気持ちは鋼鉄でできてると思ってる?

でも、山本さんは、言葉を区切って、ほっと小さく息をつく。
ニヤニヤ笑いじゃない、小さな微笑が浮かぶ。
それは、ほんの少し寂しいみたいな、頼りないみたいな。

何で、そんな顔するの?

「でも、それは全部理由にはならない。ここに来たのは、ちょっとさゆちゃんが心配だったのと、あのクスリを始末しといた方がいいと思ったから。でもさゆちゃんを抱いたのは、さっきの気持ち全部ちょっとづつあるけど」


「でも一番大きなところは分からない。俺だって全部自分の気持ちが分かって行動してるわけじゃないし」


「何よそれ―――」

でも、そこまで言って言葉は続かなかった。
山本さんの顔の寂しさが、ちょっと色濃くなったから。


「ベッドのことは、考えたくないな。甲斐のことも。―――でも確実にいい気分ではなかったよ」


嫌だ、そんな顔。
急に可愛そうになってしまうじゃない。
抱きしめてあげたいって。

ひどいこと言われてるのは私の方なのに。


でも、山本さんがそんな顔を見せたのは一瞬で、すぐにまた、イライラさせるニヤニヤ笑いに戻ってしまう。
人を馬鹿にしたみたいな。


「でもさ。どんな理由にしても、結構いい組み合わせだと思わない?俺本気だよ?最初の計画、全うしようって」

「最初の計画って何よ?」

「言っただろ?俺に乗り換えるつもりだったんだから、俺と付き合おうよ」


思ってもみなかった言葉。

この男馬鹿じゃないの?
私がどんな女か知ってるくせに。

このことは、今夜限りの出来事だと思ってた。

そりゃあ最初は、この人に乗り換えるつもりだった。
自分があんなに甲斐のこと、迷路にはまってしまうなんて思わなかったし、見た目も知名度もずっと上のこの男のことを狙ってた。

でも、こんなヤツなんて知らなかったから。

不敵なニヤニヤ笑い。
何を考えているのか分からないのが私を不安にさせる。
そのくせ、私の考えてることなんて全部お見通しって態度。

すごく不愉快。
すごく苦手。


私は、私の本性を知ってる男と付き合ったことはない。
男は、私にとっては騙すものだった。


山本さんは起き上がり、そのあたりに散らばった自分の服を拾い集めて身につけ始める。
私は自分の足元に落ちていた彼のシャツに気づいて、彼に手渡してあげる。

「ありがとう―――でも、さゆちゃんも何か着ないと、風邪引くよ?」

受け取りながら、全裸のままの私に、半笑いで言う山本さん。

「わ、わかってるわよっ!」

ほら、この男のこういうところ、大嫌い。
人を小ばかにした態度。
私の調子を狂わせる。

私は急に恥ずかしくなって、シャワーを浴びにバスルームに逃げ込んだ。



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シャワーに打たれながら考えても考えても、あの男のことは理解できない。
釈然としない怒りばっかりが続く。

バスローブを纏い、濡れた髪を拭きながらバスルームから出る。


バスルームの扉から見えるのは、ソファーに座った山本さんの背中。
心持ち背中を丸めて座ってる。

山本さんだって分かってるのに。

でも、私はその大きな背中に、心臓が掴まれたみたいな痛みを感じる。


甲斐じゃない。
甲斐はもうここに来ることはない。


バスルームのドアが閉まる音に、山本さんがこちらを振り向く。

「どうした?」

私の顔を見て言う。
それに、この男の、私の気持ちの動きに敏感なところも嫌い。
気が付かなくていいのに。

「何でもないわよ」

私は素っ気なく言って、そのまま寝室に戻る。
服を着替える為に。


服を選んで、化粧をする。


やだ、私、山本さんと出かけるつもりになってる。

そう気づいて、少し慌てて。
付きまとう頭痛や何もしたくないあの虚脱感が消えていること。


でも、私が選んでいたのは、甲斐の好きな服、甲斐が好きだった香水。
それにも気づいて、胸が痛くなる。

私はきっと、忘れられない。

馬鹿で鈍感で不器用で弱虫で、でも正直で笑うと子供みたいで。
いつも私をこわごわ抱く腕。
戸惑ったように私を見る目。

私を愛さなかった甲斐を忘れられない。


私から離れない甲斐の影。
私は化粧する手を止めて、両手で顔を覆った。

別に泣いたりはしない。

苦しいだけ。



「さゆちゃん、聞こえる?」



絶妙な最悪のタイミング、ドアの向こうから山本さんの声がする。
多分ドアのすぐ向こうに立ってる。


「何?」

聞き返す声が、ほんの少し震えてた。


「さっきの答え、まだだから」
「何よ」

「付き合おう」


まだそんなこと言って。

読めない山本さんの言動と、付きまとう甲斐の影。
私の頭をぐしゃぐしゃにして。
それは怒りに変わる。


私は座っていたドレッサーの前から立ち上がりつかつかとドアに向かう。
ノブを掴んで、大きくドアを開けようと―――。


「開けないで」


強い力で、押し戻されるドア。
もう一度力を入れてもびくともしない。
こんな大男に力で勝てるはずはないわよね。

「どういうつもりよっ」

ドア越しに高い声を出す。


「俺だって、そこまで厚顔無恥じゃないってことだよ」

「何言ってるか分からない」


「何度も言わせるなよ。俺と付き合おう」


私は笑い声を立てる。
馬鹿みたい変な男。


「いいわよ別に?寝る男が一人くらい増えたってどうってことないもの。連れて歩くのには見栄えがするし、私の中身なんて空っぽだって、もうご存知みたいだし。好きにしたらいいじゃない!」


大きな声、まくし立てる。
みっともないとは分かってたけど、止められなくて。

少しだけ、涙が滲んだ。

悲しかったわけじゃない、ただ興奮しただけ。


「いいんだ?」


ドア越しに伝わる山本さんの声。


「いいわよ。好きにしたらいいって言ってるじゃない」



そう答えて。

そうしたら、急にドアが開いて。
内開きのドア、あまりに突然開いたから、押された私はよろけて倒れそうになる。

「おっと」

そんな私の体を慌てて支えた山本さんの腕。
強くて、迷いのない腕。

そして私の顔を覗き込む。

「泣いてるの?」
「泣いてなんかないわよっ!」


慌てて山本さんの体を押し退けて、顔を背けようとしたけれど、強い腕の力にはかなわない。
反対にそむける顔を押し戻されて。

山本さんの顔が近い。
やだ。


「いいって言ったからね」
「何よ」

「他の男とは全部別れてね」

「何言って―――」

「この部屋は?家賃誰が出してるの?さゆちゃんじゃないよね?男?」
「親よっ」

「じゃあ、部屋はこのままでいいや。でも、他の男とは別れなきゃダメだからね、特に危ない歯医者さんとはね」


まっすぐに私を見る目、それも至近距離で。
その迫力に、この私が気圧されて、一瞬言葉を失って。

でも、すぐに言い返す。
何言ってるのこの男。


「何でっ。何でそこまでしなきゃならないのよっ」
「だって、俺と付き合うって言ったじゃん」

「そんな、私があなたのためにそこまでするほど、自分に価値があると思ってるんだ」

嘲笑混じりに言い返しても、山本さんの目はちっともひるまない。
それどころか、もっと強く私を見る。

私は、中身の空っぽの私は。
そんな風に誰からも、強く見られたことなんてない。

私を見る目、私が知ってるのは他の男達が見る、下心丸出しの汚らしい視線か、私の見てくれに対する羨望の視線、それに、甲斐みたいに怯えた目しか知らないから。

やけに落ち着かなくて。
すごく、やだ。



「あるよ。俺の切り札は、さゆちゃんがまだあいつのこと想ってるって知ってること。それにどんなに傷ついているか。俺がそれを癒してやるとまでは言わないけど。俺のそばなら、あいつのこと想っててもいいんだよ」


初めて、甲斐を「あいつ」と呼んだ。
名前じゃなく。

そのことに何かを読み取らなくてはいけないのかしら。


「すごい特典だとは思わない?」


また、ニヤニヤ笑いの顔で言う。
でも、私にも少しずつ分かり始める。

この人のニヤニヤ笑いは、自分の真意を隠す壁。

私と同じ、ウソツキな人間。
ひねくれ者同士、丁度いいのかも知れない。


「切り札は、使ってしまった時点で崖っぷちに陥るのよ?」


強い腕の中、山本さんを見上げて言う。
ほんの少し、私らしい、可愛げのない余裕の笑みは見せれたかしら?


「でも、考えておいてあげる」



ああ。
でも、この人の方が私より、ずっとずるい。

そう言う私に、満面の、本当の笑顔を見せるなんて。
甲斐とのことで十分思い知らされたはずなのに、結局最後に勝つのは正直な方だって。

それでも、まだ、私は素直にはなれない。



「ご飯食べに連れてってくれるんでしょ?用意するから、離して」

優しく囁くと、一度私を抱く腕、ぎゅっと力を入れてから、山本さんは笑う。

「もう一回戦始めたい気分」
「ばか」

山本さんは大人しく私を離す。
私はドレッサーに座りなおし、化粧の続きを始める。

ドレッサーの鏡越しに、ベットに座ってじっと、やっぱり鏡越しに私を見つめる山本さんの姿が映る。


「さゆちゃんは綺麗だよ」
「言われなくても、知ってる」

「ううん、本当に」




すこしだけ。
胸が締め付けられるみたいな言葉。




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「ちょっと待ってっ!何よこれっ!ベンツはどうしたのよっ!!」

思わず大声を上げる私。
綺麗に着飾った私、山本さんと部屋を出て、彼の車の前。

でも、私の目の前にあるのは、古くて小さな青い軽自動車。

「事故っちゃって、修理中。コレ代車」

涼しい顔で言って、運転席のドアを開けて。
ちょっと滑稽。
大きな体を狭い運転席に押し込む姿。

「私に、この私に。軽自動車に乗れって言うの?」
「うん、言うの」

山本さんは、窮屈そうに腕を伸ばして、助手席のドアを開ける。

「早く。餓死しちゃうよ」

私を見上げて言う山本さん。

「うそ、やだ、信じられない」

でも、何か、こんなボロい車に乗せられるのなんて冗談じゃないけど。
この小さい車に山本さんの大きい体があまりにも不釣合いで、おかしくて。

つい笑ってしまう。

山本さんはそんな私を唇を尖らせた、子供みたいなふくれっつらで見上げてて。

だから、結局その車に乗り込んでしまう。
500万以下の車には絶対乗らないって決めてたのに。


咳き込むような変な音を立ててエンジンがかかる。
ガタガタと小さな振動とともに走り出す。

ああ、もうやだ、貧乏臭い。
ありえない。
誰かに見られたら耐えられないかも。


「元のさゆちゃんにもどってきた」

まだ、ほんの少しふくれっつらのまま山本さんが言う。

「元の私って何よ」
「女王様なさゆちゃん」

「だって私、高いもの」

でも、山本さんはちらっと私を見て、それからつぶやくみたいに言う。

「さゆちゃんは高くないよ、でも安くもない」
「何それ?」

「さゆちゃんの価値はさゆちゃんってこと。それ以上でもそれ以下でもないから。俺の前ではそのままにしてたらいい」


謎掛けみたいな言葉。

私の外見に価値があるってことは知ってる。
私の中身に何の価値もないってことも。

バランスがとれて丁度いいってこと?

分からない。
分からないから、私は自分を高く見せることしか今まで考えてなかったから、急にそんなこと言われても困る。

「変な男」
「俺のこと?」

「他に誰がいるの?友達の為に、私みたいな女引き受けて。あ、でも私とやれるからいいのか」

からかうみたいな気持ちで言ったのに、ハンドルを握る山本さんは驚いた顔で私を見て。

「危ないっ!信号っ!!」

信号待ちの前の車に突っ込みそうになって、私は大声をあげる。
山本さんは慌てて急ブレーキを踏んで。

やだからね、私。
こんなダサい車で事故死するのは。


「俺、そんなにいいヤツじゃないよ?確かに甲斐のことは好きだけど。そのために女の子と付き合ったりしないし。さゆちゃんみたいに綺麗な子はそんなにいないけど、でも、そこそこ綺麗でしかも素直な女の子が、結構言い寄ってきてくれるし」

「じゃあ、さっきのは何だったのよ」


山本さんは、じっと私の顔を見る。
その表情は半分呆れたみたいで。

「さっきも言ったじゃん。わかんないって。自分で自分の行動の理由を全部把握してるわけじゃないって」


それから、やっぱりきょとんと彼のこと見ているであろう私のほっぺたに、ちょっとだけ触れる。

「傷ついてるさゆちゃんに対する同情も、甲斐のことも、さゆちゃんが綺麗なことも、全部本当に、嘘じゃないけど。でも、小さなことだよ?そう言っただろ?」

それから、ハンドルを抱いて、顔をこっちに向けて。

「―――それとも、この気持ち、さゆちゃんのこと好きだって言ったら納得する?」


その真剣な目と、自分の価値が分からなくなりかけた私。

「信じない」


山本さんは笑う。
にやっと。

心隠す笑み。
でも、寂しそうに見えるのは気のせいなのかな。



「だから、とりあえず、計画通りってことにしとこうよ。計画通り俺と付き合うって」



どう答えていいか分からない。
ただ、変に胸がどきどきしてるのが分かる。

落ち着かなくて。



私はただ、山本さんから視線をそらせて。


信号が青に変わる。


山本さんも私から視線をはずし、前を向いて、車を走らせる。
私は窓の外を見て、流れる街の明かりに視線を泳がせる。

しばらく無言の時間が流れて。


私より、ひょっとしたら一枚上手かもしれない男。
それに私のこと、よく知ってる。

ボロボロの内面、からっぽの中身、ひねくれた私。

読めない心も、人を小ばかにしたみたいな態度も、意地悪なニヤニヤ笑いも。
全部、全部不愉快だけど。

山本さんに身を任せたら、私は―――。


私の嘘を見透かす人。


私は、自分でも忘れてしまった、どこかに置き忘れてきた本当の自分。
空っぽじゃない私になれるのかもしれない。



甘えてもいいの?



でも、そんな言葉を口にするには、やっぱり私は、素直になれなくて。


その代わり、こんなつまらないことを口にする。

「さっき、どうしてドアを開けさせなかったの?」


ずっと無表情に前を向いて運転していた山本さん。
ちょっと驚いたみたいに、言葉を選んで。

「え?ああ―――」



それに、この人の時々見せる、こういう姿。
私、ちょっと、好きかもしれない。



ほんの少し照れくさそうに、指先で鼻を掻く。



「やっぱ、はっきり断られたら、カッコ悪いからさ。結構俺もいっぱいいっぱいだんだけど」



出口のない迷路。
私の心をとらえて離さない。


そんな山本さんの言葉。

私を見る―――ウソツキのクセに嘘のない瞳。




ほんの少し。
迷路の出口。

光が差したような。




その先がどこに続くかは分からないけれど。




私を救う光。


それは―――。




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THE END
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